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集団ストーカーと電磁波攻撃Ⅱ【自分用のデータ保存】

こちらのサイトはあくまで私的なものです。 自分用のデータ保存のためのブログです。

【信じる力の大切さ】何事にも、こだわらない人。悟りたいという思いも終わっている人。物事に疑惑を持たず、有りのままを見る人。生死という心配も超えた人。そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。「人間が、社会で成功を極めた真の大社長が至る最後の姿は、原木のような純朴・純真な人間なのです。従って、初めから純朴な人間が居れば、その人は貧乏でも社会の真の成功者なのです」無意識に至った心境と、求めた求道の上で至った心境は、その盤石さに天地の開きが存在します。何気なく知らずに至ったゴールの心境は、経験を経ていないために刺激があれば簡単に崩れ去ります。でも知識として、ゴールの理想形を知っていることが自分を助けます。そういうものだという知識は、大変な苦労の上で得たものと同じ心境の答えを教えてくれます。すると、経験の無い人でも悟った人間と同じ心境でいるためには、その知識を信じるか、信じられないか、だけなのです。「信仰」の真の意味は、正しい知識・知恵を信じられるか否か、の「信」なのです。自分に経験が無くても知識への「信」が"本当に持てれば"、その人はゴールの中で暮らせます。信じる力>経験と霊的には言えます。間違いが無いのは、自分の心に神仏が存在することを「信じる」ことです。この信は、社会での成功も貧乏も、色々な経験の有無も超えて行きます。自分の良心(良い心・内在神)というものを信じて見ましょう。

既に中に居るのに気付けないだけ
2016-02-28 11:41:26 | 釈尊の言葉
何事にも、こだわらない人。
悟りたいという思いも終わっている人。
物事に疑惑を持たず、有りのままを見る人。
生死という心配も超えた人。


そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-411)

(感想)
これを読みましても、
「ごもっともです」「ああそうですか」「私には無理です」
と多くの人が思われるでしょう。
でも、これは本当に難しいことなのでしょうか?

普通の多くの人が、
「もう、それでいいじゃん」
「悟りなんか関係ない」
「そういうモノ(人)なんでしょ」
「死の心配なんかしていない」
という感じで、社会の中で普通に暮らしているものです。

あれ?これは釈尊の上記の言葉と同じではないでしょうか。
多くの人々が、すでにゴールに達して暮らしています。
これは何が違うのでしょうか?

これと似たことを老子も言っています。
「人間が、社会で成功を極めた真の大社長が至る最後の姿は、原木のような純朴・純真な人間なのです。
従って、初めから純朴な人間が居れば、その人は貧乏でも社会の真の成功者なのです」

(「人間は純朴さが大切」http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/e784f415fec854806d0ad1dd6c9b6f28)

真の成功者も、貧乏な人も、純朴な人間ならば同じゴールに達した最高の人間だと老子も断言しています。
この両者の違いは、社会で成功した経験の有無だけです。

すると、この項の釈尊の言葉も、上記の最高の人間と私たちとの違いは、
* コノ世のあらゆることに執着をしない努力をしたこと。
* 悟りを求めて苦労した上で、悟りを開き、そして悟りをも捨てたこと。
* 何事にも疑問を持つ視点から、有りのままを見て受け入れる心境に至ったこと。
* 生死を心配する心境を超えて、死の恐怖を超えたこと。

という求道の有無、経験の有無、だけなのです。
困難な求道の上で至った心境と、
社会で普通に暮らして成った心境と、
その結果は同じ暮らしをしています。ただ、経験の有り無しだけが違うのです。

ただ言えますことは、無意識に至った心境と、求めた求道の上で至った心境は、その盤石さに天地の開きが存在します。
何気なく知らずに至ったゴールの心境は、経験を経ていないために刺激があれば簡単に崩れ去ります。

でも知識として、ゴールの理想形を知っていることが自分を助けます。
そういうものだという知識は、大変な苦労の上で得たものと同じ心境の答えを教えてくれます。
すると、経験の無い人でも悟った人間と同じ心境でいるためには、その知識を信じるか、信じられないか、だけなのです。

「信仰」の真の意味は、正しい知識・知恵を信じられるか否か、の「信」なのです。
自分に経験が無くても知識への「信」が"本当に持てれば"、その人はゴールの中で暮らせます。
信じる力>経験
と霊的には言えます。


誤解を生みやすい信仰という言葉ですが、信仰というキーワードで思い出す内容が私にはあります。
世界的な芸術家・棟方志功が、戦争中に田舎の寺に疎開していた頃のエピソードです。
まったく無名で売れない貧乏な画家だった棟方志功は、その描く絵も子供が描く絵のようでした。
誰にも評価されずに、うだつの上がらない風貌で、ただの大飯食らいの居候でした。

近所の人も、我らの寺に変んな者が棲み着いたと心配していました。
ある時に住職が檀家巡りから帰りますと、棟方は寺の部屋の白壁の全面に意味不明な大きな絵を書きなぐっていました。
周囲の人がそれを見て棟方を怒りますと、紙に描き始めたら筆が止まらなくなって壁にも描いてしまったとオロオロと土下座して謝りました。

でも住職は「良い良い」と言って怒りませんでした。
周囲の人が住職にその理由を聞きますと、
「志功は信心深いから」
と答えました。

志功の普段の生活を見ていた住職は、志功が子供のように仏様にキュッと手を合わす姿を見て、その信の様子を非常に買っていたのでした。
その白壁に躍動する大きな壁画は、今でも寺の財産として残っています。
棟方志功の信心が、寝食付きの寺から追い出されずに救ったのでした。

でも、世の中には変な間違った信仰も多々あります。
何を信じるのかは、自分が持つ縁が同調させます。
何が正しいかを議論しても答えは出ません。

間違いが無いのは、自分の心に神仏が存在することを「信じる」ことです。
この信は、社会での成功も貧乏も、色々な経験の有無も超えて行きます。
自分の良心(良い心・内在神)というものを信じて見ましょう。


(伊勢白山道)
  1. 2016/02/28(日) 13:32:51|
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