信仰の意味は、広いです
2018-11-16 11:59:23 | 老子の人生論
参考記事:老子の言葉 第五十四章『老子が先祖供養を絶賛する』
「老子の人生論」第五十四章
しっかりと正しい信仰を持つ者は、引き倒されることは無い。
しっかりと正しい信仰を胸に抱く者は、道を外れることが無い。
そうすれば、その子孫も、その祭事を続けて絶やすことが無い。
正しい信仰を個人の身に修(おさ)めますと、その人の人徳がより充実します。
家の代表者が、正しい信仰を持ちますと、その家は豊かに繁栄します。
村の代表者が正しい信仰を村内で行いますと、その村の成長は継続します。
地方全体を治める者が、各地域で正しい信仰を修めますと、その地方は繁栄します。
国家全体を治める御方が、正しい信仰を維持しますと、その恩恵は民衆の生活の全体に行き渡ります。
つまり、それがどんな信仰かと言いますと、
「自分を観察するという信仰」によって、自分自身をよく観察することに成ります。
「家を代表するという信仰」を行うことによって、自分の家をよく観察することに成ります。
「村を代表するのだという信仰」を行うことによって、その村をよく観察することに成ります。
「地方全体を治める責任感という信仰」を行うことによって、その地方全体をよく観察することに成ります。
「国家全体を治めるための信仰」を行うことが、その国の全体をよく良く観察することに成ります。
だから私(老子)は、何によって国家全体の現状と未来・行く末(いくすえ)のことが分かるのかをタネ明かしをしますと、
「国家全体を治めるための信仰」を行う御方が、その信仰をしっかりと行っているか否かを観察することによって、分かってしまうのです。
(感想)
老子が何を信仰していたのか?
老子が書いた文章には「道」とだけ表記されて、それが何を指すのかは話の内容ごとに、様々な意味を持たせています。
その大半は、道=道徳、を意味します。
しかし、ここでは、
・ 正しい信仰=その信仰の対象をよく観察することに成る。
という示唆がされています。
たしかに仏教を信仰する人は、釈尊に関することは一言一句漏らさずに、非常によく観察しています。
キリストを信仰する人は、聖書の隅々までキリストのイメージを観察するように読み込んでいます。
たしかに、信仰=その対象を観察すること、に成ります。
この章では、それぞれの立場の仕事を、信仰に例えています。
でも仕事ならば、「その仕事の責任感」などと言えば良いことを、老子は「信仰」としています。
それは、なぜでしょうか?
何かを代表するという責任が有る仕事は、ただ事務的に行って上手く行くのでしょうか?
多くの人命を預かるような立場の仕事には、常に不安感が付き物です。
すると、それはただの仕事では無くて、祈りたいような不安感を、その責任を認識するほどに代表者は持つものです。そうなれば、それはもうただの仕事では無くて、信仰を行う修行者だと代表者は言える訳です。そして、ただの仕事ならば、夕方6時を過ぎれば「ブッハア〜」とビール、などと仕事を忘れることが出来ます。
でも信仰ならば、24時間、食事内容も制限して信仰することが外国でも見られることです。
気が抜けない仕事とは、まさに信仰であり、それを行う人は修行者なのです。そして老子は、代表者ほど、自分の仕事はただの仕事では無くて、信仰を行っていると思ったほうが良いと、この章で示唆をしています。日本という国が、今まで長く継続が出来たのは、「祈るような気持ちで」努力をされた様々な分野の代表者が居られたからでしょう。
自分の仕事も信仰として、修行者として、真剣に働く人が今後も出るのでしょうか?
自分の仕事を信仰にまで高めることが、競技のアスリートにしても、会社の代表者にしても「長く継続するには」必要だと感じます。
中途半端では、継続は出来ません。家族の健康を預かる家庭の主婦も、24時間終わらない家事という信仰者であり修行者です。
家庭の神官として、正しい信仰も併せ持てば、主婦道から悟ることも可能です。
自分が受け持つ仕事を、信仰にまで高めることが出来れば幸いです。
でも、こんな安月給だから嫌だ、というのも人間であり分かります。
では、自分は何を信仰(注目)するのか?
何もしないのか?
時間限定・厳守の人生期間に、1度でも考える機会が有れば魂には幸いです。
(伊勢白山道)
- 2018/11/16(金) 21:34:41|
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